2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」          入江幸男
           第6回講義(2007年11月14日)
 

       §6 フィヒテの知識学 複数の自我の関係
 
日本フィヒテ協会大会発表(2007年11月17日、於:大阪大学)の予行演習です。
「意識の事実」における諸自我と共同自我
                      
1、はじめに 
 コミュニケーションを説明するために、「共有知」とか「相互知識」といった概念が、最近の哲学や言語学で注目されています。他者との対話が可能であるためには、対話者の間に何らかの意味で知を共有するということが不可欠なのですが、知の共有ということをどのように理解し、説明するか、ということが非常に困難な問題であることが解ってきたからです。我々は似たような問題意識を、後期のフィヒテ哲学の中に見つけることができます。
さて、フィヒテの後期知識学の最も重要な特徴は、知を絶対者の現象としてとらえることですが、もう一つの重要な特徴は、絶対者の現象としての絶対知が、普遍的な唯ひとつの知であり、その普遍的な知と個人の知を区別することでした。フィヒテによれば、既に前期の知識学から、彼のいう自我は、個人の自我ではなかったということです(これについては後述します。)しかし、前期知識学では、そのことは必ずしも明確ではなかったし、普遍的な知と個人的な知の関係が詳細に分析されることはありませんでした。それに対して、後期知識学において、フィヒテは、まず知が「絶対者の現象」であることを論証し、次にその知から多様な知を導出しています。そこでは、原理となる唯一の知から個々人の意識や知の発生が説明されます。
本発表では、知識学の準備のために行われた講義『意識の事実』(1810)をもとに、フィヒテが、諸自我と共同自我の関係、言い換えると個人の意識と「普遍的な思考」の関係をどのように考えていたのかを確認し、そこに現代の共有知論に欠けているある視点を見出したいとおもいます。
 
2、『意識の事実』(1810)を取り上げる理由
『意識の事実』(1810)は、ベルリン大学で1810/11WSに「知識学」の準備として行われた講義であり、フィヒテ自身が出版を意図してまとめたもので、生前に出版の準備ができていたのだが、結果として1817Cottaから出版されることになったものです。この講義に続いて「知識学」(1811)の講義(GAII-12,)が行われています。
後期の「知識学」をとりあげるのではなく、「意識の事実」を取り上げる理由は、後期の「知識学」においては、知の唯一性や普遍性を前提して議論が始まるのに対して、意識の事実では、そのような前提なしに「現象」の「観察」が行われ、普遍的な知を想定する必要性ないし必然性が論証されているということにあります。また、知識学を前提せずに、議論が行われているので、後期知識学の難解な叙述に較べて、わかりやすい内容になっているということもあります。(ちなみに、「意識の事実」(1813)は、講義「論理学の超越論的論理学あるいは哲学に対する関係について」 を前提しており、それによって獲得された「観念論的な基礎(idealistische Grundlage)」 を前提に議論が行われているので、その点では「意識の事実」1810での諸自我の議論が、より理解しやすいものだと考えて、これを取りあげることにしました。)
 
『意識の事実』(1810)は、
「第一部、理論的能力への関係における意識の諸事実」
「第二部、実践的能力への関係における意識の諸事実」
「第三部、高次の能力について」
の三段階からなっており、このような三段階からなる「生の展開の自然史(eine Naturegeschichte der Entwicklung deises Lebens)」 (SW2-684)であるといわれています。
 
3、「第一部」での「普遍的思考」による客体と自我の産出
(1)「客観化する思考」による客観的対象の産出
まず彼は、感覚について次のように語ります。
 
「私がこの花を赤いものとして知覚するのは、私の見ることが、とくに、私の色を見ることが、この規定された色を見ることへと制約されていることである。」
 
つまり、「外的知覚は、外官の規定された制約の自己直観である」と言われます。ここでは、まだ外的な対象は成立していない。これに思考が加わり、思考が直観されるものを客観化し、意識との対立において措定します。フィヒテは、これを「直観からの脱出(Herausgehen)」(SWII, 545)と呼んでいます。「思考とは、措定することであり、しかも反対のものに対して措定することである。」それゆえに、ここに客観が意識から独立に存在するものとして措定されることになります。では、この思考を行うのは、誰でしょうか。
 
「『私は、この思考において思考する』などと言うことは決してできない。というのも、後で示すように、この思考への反省によって初めて、自我は自己自身に達するからである。むしろこう言わねばならない。『思考は自立的な生として、自身から、自身によって、思考する、思考は、この客観化する思考である』といわねばならない。」(SWII, 548
 
(2)「思考への反省」による自我の産出
上に述べられていた自我の産出ですが、それを彼は次のように説明します。
 
「客体によって、外官が制約されたように、外官の制約つまり外的客観の知覚によって、内官が拘束され制限されることの知が生じる。」560
 
これは「知の知」とも呼ばれています。
 
「自己のあらゆる原因性を超えて存在するとして説明されていたような原理についての知。この知は、外部知覚における広がりがそうであったように、能力の直観である。」(560)
 
これは「原理の知」と呼ばれています。そして、この「知の知」と「原理の知」が一つのものとして「反省」あるいは「思考」されるとき、そこに「自我」が成立します。
 
「この原理についての知は、あの知の知と一緒になって、知の実体的な担い手に、つまり、原理と一つであり同じものであるような知る者に、要するに、自我になる。知る者である自我、同時に、直接的な原因性から解放された原理である。」556
 
「知の知」の方は、知ることを可能にするものであり、「原理の知」は行為を可能にする者だといえます。前期知識学では、自我の本質を知的直観においていましたが、その知的直観は、意識を可能にするものとして意識の根底に想定されましたが、他方で行為を可能にするものとして想定されていました。知的直観のこの二つの側面が、ここでの「知の知」と「原理の知」に対応していると思われます。自我を考える思考と、自我の関係について、フィヒテは次のように述べています。
 
「ここで現れる思考によって、自我が考えられる。これによって初めて、自我の存在が思考に与えられる。自我は、その存在の前に思考することはない。」
「自我は、外的な客観と同様に、普遍的な思考の産物である。自我はこの思考によって与えられ、外的客観が与えられるのと同様である。」(SWII, 562)
 
4、「第二部」での「普遍的思考」による諸自我の産出
 
第一部では、外的対象の意識や自我の意識が、意識の事実ないし現象として述べられ、それの説明が行われています。第二部では、他の自我の存在の意識が、やはり意識の事実ないし現象として前提され、それの説明が行われます。「普遍的思考」は、第一部で「自我」を考えたのと同様に、他の複数の自我を考えます。このことは、まず、唯一の生の視点から、その生が分裂するということとして説明されます。
 
「あの唯一なる生が、本質的に互いに同等であるとされるいくつかの生へと公然と分裂する。したがって、いくつかの生が確証されるなら、あの一なる生はいくつかの形式のうちで反復され、何回も措定されることになるわけである。」(SWII, 601)
 
このような諸自我と普遍的な思考の関係については、次のように語られています。
 
「『私が、他の諸自我を考える(考えることによって、生み出す)』ということはできず、むしろ『普遍的で絶対的な思考が、他の諸自我と私自身を思考する(思考することによって、生み出す)』と言わねばならない。」(SWII, 603)
 
(1)諸自我の分離
これらの個人は分離しています。なぜなら、個人は、他の個人の内部を見ることが出来ないからです。
 
「このように諸個体を分離するさいの規定根拠は、直接的な内的直観の領域が別個になっている、ということである。」(SWII, 610
「もろもろの個体として個体は、何らの連関もなしに端的に切り離された、それだけで存立している個別的な諸世界である」(SWII, 606)
 
諸個人は内的直観において分離しているので、互いに関係するのは思考によることになります。
 
「内的直観こそが、一を廃棄する際の媒体なのだから、一の回復は、この媒体からの脱出によって、この媒体とは反対のもの、つまり思考によって、行われねばならない。この思考は、根源的な絶対的一の表現であるから、根源的思考であろう。」(SWII, 606)
 
ちなみに「普遍的思考」(609)「絶対的思考」(608)「根源的思考」は同じものだと思われます。ところで、彼らは思考によってどのように関係するのでしょうか。
 
(2)「普遍的思考」は、いつも「諸個人の共同体」を思考する608
 
「個人である私が、他の諸個人を考えるように、これらの諸個人が再び私を考える。私が考えるのと同じだけの多くの個人が、また私を考える。従って、すべての個人が、同じ共同体、諸自我の同じ体系を考える。・・・各人は、自己自身のみならず、すべての他者を、絶対的に根源的な思考によって考える。」(SWII, 608)
「この唯一なる普遍的思考は、それが存在し思考する場合にはいつでも、諸個体の共同体を思考する。」609 
 
個人は、普遍的思考として、彼の自我について考えるが、そのときつねに他の自我についてもともに考え、ある共同体の中の一人として自己を考えるということでしょう。
 
「この共同体は、可能性としては無限であるが、現実には限局されていて、全体においても部分においても完全に限定されているものである」609)
 
この共同体が、その都度の目の前にいる人々の集合をさすのか、あるいは身近な共同体を指すのか、あるいは国家や民族のようなものを指すのかは、あきらかではありません。
 
さて、以上の説明では、唯一の生が存在し、それが直観形式において現われたものが自然であり、それがまた個人的形式において普遍的思考として現われる、ということが基本的な前提となっています。
 
フィヒテは、「意識の事実」の方法を次のように述べています。
 
「いかなる疎遠な夾雑物も交えずに、意識をば、それだけで存立しそれ自身のうちから説明することの出来る特殊な現われとして観察する、という格率にしたがって、単なる学問的な形式によって、到達した」SWII, 622
 
この講義では、「意識」の事実を前提しますが、それが「個人の意識」であるとういうことは前提されていません。意識は、対象の意識や個人の意識の発生の前から存在するものとして考えられており、そのような立場から、「意識の唯一の生」が語られているのです。しかし、ただ一つの生の存在ないし想定の必然性は、ここまでのところでは、まだ論証されていません。その論証は、唯物論と観念論的個人主義への批判と結びついています。
 
5、唯物論と観念論的個人主義への批判
 フィヒテは、このような「普遍的思考」を考えなければ、私の表象と他者の表象が一致することを説明できないと指摘して、唯物論と観念論的個人主義では、これを説明できないと批判します。
 
(1)唯物論では、私の表象と他者の表象の一致を説明できない
唯物論者は、「我々の表象の根拠」として、物自体が存在すると考えます(SWII, 624)。フィヒテは、唯物論によるならば、外的対象についての私の表象と他者の表象が一致することを、「物自体と、物自体がその存在に応じて作り出す印象とに基づいて説明することができる」(SWII, 625)という利点を認めます。しかし、唯物論は物がそもそもどうやって表象を生み出すのかを説明していない、と批判します。(このような唯物論への批判は、フィヒテが前期の「知識学の第一序論」(1797)ですでに述べていた批判です。)
 
「物が、物とは本質的に異なる像に対して、物から切り離された物とは本質的に異なっている力に、どうやってなることが出来るというのだろうか。この点について君達は、理解できる言葉を申し述べたことは一度もなかったし、そうした言葉をいつか申し述べることができるようになるわけでもない」(SWII, 624)
 
また、唯物論は、私が他の理性的存在者の表象をどのようにして持つことができるのかを説明できないという点も、フィヒテは批判します。
 
「唯物論者は、自分の外なる他の理性的存在者についての表象を説明することは決して出来ない。というのも、徹頭徹尾超感性的なものである一個の自我、という像を生じさせるのは、いったい感性的客観のどのような印象だというのであろうか。」(SWII, 625、訳129)
 
唯物論者が他の理性的存在者の存在を証明しようとすると、他者の肉体の存在から自我の存在を推論するしかないのですが、そのような推論が不可能であることをフィヒテは、この前の箇所(Vgl. 608f. 611)で説明しています。(今回は、この説明を省略します。)
 
(2)観念論的個人主義への批判
 このように唯物論を批判して、フィヒテは観念論を採用しますが、しかし他方で、その観念論は「観念論的個人主義」ではないといいます。
 「観念論的個人主義」とは、次のような立場です。観念論者は、「空間は私の直観の形式であり、空間の中にあるものは、私の直観として簡単に導き出せるだろう」((SWII, 625)と言いますが、このときの「私」を個人的自我として考えるのが、彼のいう「観念論的個人主義」です。フィヒテによると、これまで哲学が説明しようとしてきた意識はつねに、「個人的主観の意識」(SWII, 624)であり、「だれもが、知識学もまた個人主義であると見なした」(SWII, 624)と言います。しかし、知識学は、「あらゆる個人性を自己自身のうちに含み止揚している生の意識」(SWII, 624)を説明するのだと明言しています。(『全知識学の基礎』の「第一根本命題」における主語の位置にある「自我」もまた、普遍的思考であり、個人としての自我ではない、ということになるでしょう。)
さて、「観念論的個人主義」をフィヒテは次のように批判します。このような観念論的個人主義者が、「空間が直観の形式であることを、君はどのようにして知るのか」と問われたならば、彼は「直接的な内的自己直観によって」と答えるだろう。そして、この内的自己直観がまたしても、個人的意識であるとすると、それはやはり彼にしか妥当しません。この内的自己直観をさらに何らかの仕方で説明したところで、その説明が彼個人の意識であるかぎり、「空間が他の諸個人の直観の形式でもある」ことを示すことは出来ません。観念論的個人主義に立つ限り、空間形式であれ、他の意識内容であれ、それを他者と共有していることは、彼の個人的な想定にすぎません。(フィヒテは、ここでカントもまた「観念論的個人主義」であったと考えています。)
 
(3)知識学の立場
これに対してフィヒテの立場はこうである。
 
「今の場合肝心なのは、[客観の成立を説明する]原理が何であるかという点である。それが個体としての私の自我であるなら、あの客観的妥当性は私という個体にしか妥当しないことになり、どのようにしてこの妥当性が他の個体にも要求できるかが予測できなくなってしまう。これに対し、あの原理が唯一なる普遍的な理性の生にほかならないのであれば、また、ただちにそうしたものとしてはっきりと措定されるならば、明らかに、この普遍妥当性は、この理性の生に対しても、またこの生がそこにおいて自己発現したものである各個体に対しても、妥当するはずであり、このことを洞見しさえすれば誰しもが、この普遍妥当性を万人に要求できるのである。」SWII, 627
 
6、暫定的展望 フィヒテとヘーゲルとサール
 
フィヒテは、一つの生の一つの意識を語るが、しかし、生が思考したり、自己自己意識をもつのは、あくまでも個人的形式においてであると考えていました。この点で、ヘーゲルとは異なります。先に述べたように、フィヒテは、「普遍的思考」は、いつも「諸個人の共同体」を思考する608と語っていました。ただし、フィヒテは、<普遍的思考は、共同体を考える>とはいうが、<共同体が考える>とは言いません。その理由の一つは、この共同体が、常に、経験的に限定されたものとして与えられるにすぎないのに対して、この普遍的思考は無限に開かれたものであるので、普遍的思考と共同体が原理的に一致することがないからです。では、普遍的思考と共同体を原理的に区別した上で、フィヒテが「普遍的思考が個人において考える」と言えたのとどうように、「普遍的思考が共同体において考える」といわなかったのは、なぜでしょうか。それは、個人が内的直観をもつのにたいして、共同体は、内的直観をもたないということだろうと思われます。このように共同体を主体として考えない点が、ヘーゲルと異なる点です。
ところで、現代における共有知論者の一人であるサールは、この点でフィヒテに似ている。フィヒテが観念論的個人主義を批判したように、サールもまた共有知を、個人の志向性に還元して説明する立場を批判します。なぜならそれは不可能だからです。しかし、サールは、他方でヘーゲルのような精神を考えることも批判しています。サールにはフィヒテへの言及はありませんが、この二点でサールはフィヒテに似ています。
しかし、サールはおそらく「唯一の生が個人的形式において考える」という命題は認めないでしょう。しかし、「個人が普遍的思考として考える」という命題ならば認めると思います。この命題はサールが主張してる“We Intentionality”を表現していると思われます。つまり、サールにとっては、この二つの間には、大きな区別があるということになります。
 この区別に関係すると思われるのが、フィヒテの次のような議論です。
 
7、行為の産物の知覚、意識の質的同一性と数的同一性
 
フィヒテは「第二部、第6章」で「理性存在者の行為の産物の知覚」を説明するのですが、そこで重要な議論を開始します。
意識の唯一の生が個人において思考していると考えることによって、感性界についての認識の一致を説明することができるとしましょう。そこに成立しているのは、世界について同じ意識が個人の中に反復して登場すると言うことです。物の現象は個人の中に反復して登場します。
 個人の行為やその所産についての認識もまた、身体活動やその所産の認識であり、外界の自然的出来事ないし自然的事物の認識の一種として説明することができます。
ある個人が彼の身体を動かして何かを作るとき、それは彼にとっての感性界の知覚が変化するだけ出なく、全ての人にとっても世界の知覚が変化するのです。これは、個人の身体運動が、唯一の生が個人を通して活動することであり、その活動やその結果の認識も唯一の生が諸個人において知覚することです。
フィヒテは、とりあえずこのように説明するのですが、しかしこれでは不十分であるといいます。この場合には、各人がある人の行為とその成果について同じ内容の意識をもっていますが、その意識は数的には別のものです。フィヒテは、これでは不十分であり、数的にも一つの意識になることが必要であると言うのです。なぜでしょうか。
他者の行為の所産が問題になるときには、他者との関係が問題になります。ある行為やその所産をある人のものだと認識することは、その人との人間関係の認識と結びついています。人間関係というものは、多くの場合には、その関係を互いに認識しているということがその人間関係の不可欠の構成要件になっている。条件になっています。たとえば、AさんとBさんが「二人の関係は良好だ」と同じように考えています。ここに同じ内容の思考が二つあるだけでは、不十分であり、「二人の関係は良好だ」と互いに考えていることを、互いに知っており、そのこともまた互いに知っており、・・・というような反復構造が成立するときに、「二人の関係は良好だ」ということが成立するのです。
このことは、他者関係の基本規範である「相互承認」についても同様です。互いに相手を承認しているだけでなく、そのことを互いに知っており、またそのことを互いに知っており、・・・という反復構造がそこになければ、相互承認は成立していると言えません。
つまり、「他者の身体、行為、その所産を前にして、自分の自由を制限せよ」という禁止命令の意識が生じるのです。この意識は、哲学者が第三者として、当事者達を観察して、同じ内容の禁止命令を意識しているといえるだけでは不十分です。これを共有していることが、当事者達に共有されていることが、当事者達に共有されていなければならないのです。この意識は、他の全ての人にとって、絶対的に「一つの意識」638である。
 
「この自己規定[ある人の行為]と直接に結合して、一つのまったく普遍的な意識が、全ての人に対して生じる。この意識は、制限する<べきSoll>を同様に直接にともなっている。このようにして、全ての人の間に一つの道徳的連関が達成される。」637